19歳に戻る日

 24年目の今日はうららかないい日和になった。数日前からどうしても、「行ったほうがいいような気がして」今日は久しぶりに御茶ノ水から黄色い電車に乗り換えた。

 駅ビルの花屋でピンクのガーベラを2本。後ろのポケットに挿してちょうどいいくらいの長さに切ってもらう。それを片手に、もう何度も通いなれた道を歩く。お昼に程近い時間では、まだ誰も来ていないようだった。手を合わせてゆっくり話をするつもりでいたけれど、意外と慌しかったかな。でも、またここへやって来ることができたということが、自分にとって「何かを取り戻す」大切な儀式であったような気もする。

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 先週の日曜日、用事を終えて帰宅するとき、いつもなら絶対に寄り道しないところをふと思い立って本屋に寄ったのだった。何が欲しかったわけでもない、何か欲しかったわけでもない。特に惹かれるタイトルもないよな、と背表紙を眺めながら立ち尽くしていると、ふと、頭の奥の方で錆びついた回路が繋がるような感触があって、とても耳なじみのある感じのメロディと言葉遣いが店内に流れているのに気がついた。慌てて歌詞を追う。手もとの小さな頭脳に、フレーズをそのまま書き込んでみる。するとどうだろう、それはやっぱりその通りなのだった。もう、ちょっと笑ってしまうくらいそのまんまの感じに、言うならば「癒されて」、ああ、自分はこのことを知らされるためにここへやって来たのだと合点した。つまりメッセージというのはあらゆるところを飛び交っていて、ちょっと眉間を開けば容易にそれをキャッチすることができるのだ。いや、そんな開いていたつもりではないけれど。ただ、久々にそんなごくごく当たり前のことを噛みしめることがあって、何かを動かすべき時がきているのかもしれないと思ったのだった。
 わたしはちょっと、目を瞑り過ぎているのかもしれない。

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 毎日時間に追われていることは間違いないけれど、だからといってそれが自分に対する理由になるわけではない。沈潜して、耳を澄まして、大切なものをまぶたの裏で見通してみる。どんな状況であれ、それが正しい(自分にとって真っ直ぐな)熱望であれば、自然に体が動くべきなのだ。春はそういう季節。いつからか、3月はそういう季節になった。