いろいろなことを忘れてしまった

 
と、思うことも、新しく思い直すことも、ある。
 
時々見なおして、「きっとこれは自分にしかわからないあれこれだ」と思いながら、ほぼ完璧に「それが何か」思い出せる事実に、この場所はちゃんと覚書として機能しているのだなと思う。
 
隙間が空いているのは、そのまま「物思う」時間が欠落したということ。空っぽの時間が、これから少しずつ詰まっていきますように。

久しぶりにヒーローのことを思い出して画面を開いた。
そこには元気そうに恥じらう姿が映し出されていた。


よかったなぁ


本当に良かった。たぶん、それだけの日々ではないと思うけれど、
とてもよかったと思う。


道は、一歩踏み出すごとに新しく更新されていく。
背中から照られる夕日に伸びる影に似て、
自分の足取りの通りに道は伸びていく。

だから迷わない。このまままっすぐ歩いて行く。
恥じらうあなたの笑顔に、心が強くなる気がしたから。

もう交わらないかもしれないけれど、
いつか隣を歩いていることがあるかもしれないから。

===

興が乗って、他にも映像を探してみた。
あの年のあのステージは、本当に得難いキラキラに溢れていたのだな。
そして、あれから今までの時間が、皆にひとしく
降り注いでいたのだな。

どんな時間だったのか、それは大したことじゃない。
ただ、いろんなところで、みな等しく時間を積み重ねていたのだな。

季節が変わって、春が訪れた。

だからそんなことを思うのだろうか。
でも、いつだって必要なことは目の前に訪れる。
研ぎすましていれば、なんの心配もない。

そういう、ことなんだ。

[雑記]I SiNG

真夜中に饒舌なひとがおしゃべりしているのを聴いている。
こんな風に話すひとだったのだっけ。
そういえばそうだったかもしれない。
文字と文字の合間から透けていたのは
たしかにこんなひとだったかもしれない。


道が


どこかで分かれたのか、
それともこれからまたいつか
交錯するのか


それはわからないけれど、
こんなふうに話すひとなのだということを
いま知ることができたことに意味がある。


遠くで同じ時間を過ごしていたのだな。
今も同じ時間が流れているのだな。


背筋を伸ばして,少しチューニングをしよう。
合わせるのではなく,かすかな波長も拾っていくために。
細くともどこか遠くまで届けることができるように。


手を振ろう。


今年は手を振る年にしよう。

ドライブの1曲目はいつも…だって!!!!!!!!!!!!!

 午後からおかあさんが遊びに来て、ひとしきりおしゃべり。外までお送りして部屋に戻ってラジオをつけた。ら、ワンナイのイントロが流れてきた。そして番組のゲストが團長だった。それだけでも充分胸が熱くなるというのにこの人は、「ガキの頃からドライブの1曲目はこれでした」だなんつって、あろうことかビシバシ純情をかけてきた。なんということだ。J-WAVEで宮城くんの声が流れている。なんということだ。しかもニューアルバムからといって今はMY WAYを流している。いったいなんということだ。

これであなたがもし白いシャツとガーベラをポッケに挿しでもしてたら(いや挿してなくたって充分)、わたしは相当いろんなことを反省しなければならないな。

時間がなければ作ればいいのだし、日々が冴えないのなら、冴えてる何かをすればいい。いつでもどんなときでも、大事な小箱の奥底にそっと触れるような出来事は起こっている。それをみすみす逃してしまうかは、やはり自分次第なのだ。

ドライブに行きたいな。海辺のループラインへ。アクアラインでもいいけどね。

 

19歳に戻る日

 24年目の今日はうららかないい日和になった。数日前からどうしても、「行ったほうがいいような気がして」今日は久しぶりに御茶ノ水から黄色い電車に乗り換えた。

 駅ビルの花屋でピンクのガーベラを2本。後ろのポケットに挿してちょうどいいくらいの長さに切ってもらう。それを片手に、もう何度も通いなれた道を歩く。お昼に程近い時間では、まだ誰も来ていないようだった。手を合わせてゆっくり話をするつもりでいたけれど、意外と慌しかったかな。でも、またここへやって来ることができたということが、自分にとって「何かを取り戻す」大切な儀式であったような気もする。

  *   *   *

 先週の日曜日、用事を終えて帰宅するとき、いつもなら絶対に寄り道しないところをふと思い立って本屋に寄ったのだった。何が欲しかったわけでもない、何か欲しかったわけでもない。特に惹かれるタイトルもないよな、と背表紙を眺めながら立ち尽くしていると、ふと、頭の奥の方で錆びついた回路が繋がるような感触があって、とても耳なじみのある感じのメロディと言葉遣いが店内に流れているのに気がついた。慌てて歌詞を追う。手もとの小さな頭脳に、フレーズをそのまま書き込んでみる。するとどうだろう、それはやっぱりその通りなのだった。もう、ちょっと笑ってしまうくらいそのまんまの感じに、言うならば「癒されて」、ああ、自分はこのことを知らされるためにここへやって来たのだと合点した。つまりメッセージというのはあらゆるところを飛び交っていて、ちょっと眉間を開けば容易にそれをキャッチすることができるのだ。いや、そんな開いていたつもりではないけれど。ただ、久々にそんなごくごく当たり前のことを噛みしめることがあって、何かを動かすべき時がきているのかもしれないと思ったのだった。
 わたしはちょっと、目を瞑り過ぎているのかもしれない。

  *   *   *

 毎日時間に追われていることは間違いないけれど、だからといってそれが自分に対する理由になるわけではない。沈潜して、耳を澄まして、大切なものをまぶたの裏で見通してみる。どんな状況であれ、それが正しい(自分にとって真っ直ぐな)熱望であれば、自然に体が動くべきなのだ。春はそういう季節。いつからか、3月はそういう季節になった。

海へ。赤い橋の向こうへ。


海の日は海へ。
午前5時に出発して、友人一家とは東京湾の真ん中で合流の約束だ。

その前に軽く腹ごしらえ…と、売店のコンビニで軽食を仕入れる。寝起きの悪いドライバーは、その空気を引きずって?やや不機嫌そうに店の外で待っている。
レジを終えて店を出ようとする。と、それまでまったく目に入らなかった、こんもりとした…(笑)

「!!(こんなところに…!)」

ちょっと嬉しくなって、先ほどまでのチリリとした空気もすっかり忘れて戻ると

「…むっちゃ笑顔だったぞ」

と一言。あら失礼。
そのまま合流場所へ向かおうとすると

「写真撮らないの?」

撮っ・・・らなくて、いい、と、思う・・・

「撮りなよ」

・・・・・ハイ。

というわけで朝も早よから刺さる視線を背中に團長を激写。

こう言っちゃナンだが、「團長」は本当に素敵だ。だって、團長が「團長」である限り、ちょっとナイーヴでgdgdになることはあっても、こちらに対して直接機嫌悪くなったりしないものねー。

というわけで、海で思い出を作る前に早くもメモリアル。
27日は恵比寿。今回の中では一番楽しみなカードです。

予感は実現する

ひょっとしたらまた神通力が復活してきた、のか?
だとしたら、これは久々にかなりのエネルギーを期待してもいい、のだろうか?


ちょうど3年前、力いっぱい投げて、そして空振りに終わったカミヒコーキ
けれど、正しい願望は確実に望む何かを引き寄せるから、そして、そのおかげで確かにかけがえのないものを引き寄せたから、とりあえずわたしはわたしの力を信じている。

あのときの心躍る感覚、それでいて頭の芯は冷えた、冴えた感触。心臓から送り出される血液の温度だって、確実にいつもより上昇している気がするほどにわくわくする。あれがどんなに無敵で、素敵で、究極的で、爆発的か……あんな感じは、求めてもなかなか訪れない。

当然ながら、ここのところは一向その「感触」が動き出す気配はなかった。
あるにはあったが、3年前のあのことに関しては皆無だった。
そして、きっとまた動き出す…と思いながら、気がついたら3年が経っていた。

しかし、3年が経ったのだ。ちょうど3年。長いようで短い3年という月日が。
実際、その期間にたいした意味はないのだけれど、ただ、昨年も一昨年も、記念日として思い出すだけの1日が、よりによってまた力いっぱい振りかぶってカミヒコーキを飛ばす日になるとは!



実は、少しずつ予感がしていた。


あちこちで気配がしていたのだ。


だけど、自分から行動を起こすにはまだ早かった。どうしても体が動かなかった。こと神通力のこととなると、それは仕事や家事などとはまったく違って、食指が動かないときはとことん体も動けない。だから待っていた。動きたくなるときを、動きださざるを得ないタイミングを。それでも、もういい加減焦れて、期限を決めて立ち上がってみようかとさえ思っていたのに、またしてもこのタイミングでわたしを背中を人差し指の先で弾く、何者かの存在が動き出したのだ!


圧縮された時間のタブレットを口に放り込む。3年分の味がする。それは、今では口の中で一時に味わうことができてしまうほどにぎゅうぎゅうと濃縮されているけれど、ゆっくりと溶かしていけば、あらゆる感情がトレースできる。

「ちょっとお呼びがかかった気がするわ」

心穏やかでないであろう人に一声かけて、明日はカミヒコーキを丁寧に折ろう。大丈夫、ずっと見つからなかった「最初に折る順番」は、昨日もう見つけた。

宙を滑らせたヒコーキが、どんな軌跡を描いてもいい。それは、わたしの決めることではない。ただひたすら丁寧に、偽りなく心から。それだけで十分なのだ。