「妖精さん」のその意味は

氣志團現象最終章“THE LAST SONG”東京ドームGIG」のDVDが発売になる。

2階席の片隅で観ていた私としては、あのシューティングっぷりからきっと映像になるんだろうな、くらいには思っていたけど、意外とスカパー!公開のみなのかもとか、それだったらもう入るしかないのか、とか、いろいろ心配していたのだ。だがこれでひとつスッキリした。DVDを買おう。そうしよう。

私はこのライブいやGIGが初参戦だったわけだけど、あとからいろんな人のGIGレポを読んで、「ああ、そんなにいろいろと感じるツボがあるんだなあ」と、感慨深く思ってしまう。追いつきたくても追いつけなくて悔しい、とかそういう意味ではなく。そういえば「國道127號線の白き稲妻」で團長がギターを下げて出てきたとき、隣の友人が絞り出すように「ギター持ってる…」といったのも、今ならなんとなく意味が分かる。私なんか単純に「特攻服似合うなぁ、ギター姿も悪くないなあ」くらいのもんだったよ、その場では。

GIGレポを書こう、という気持ちは今のところまだ湧かない(というかそのつもりがなかったからどんどん記憶が曖昧になっている)のだけれど、改めて映像を見返したら私なりの何かが生まれてくるのかもしれない。

それとは別に。

彼らが背中に背負っている「妖精」という言葉の意味をぼんやり感じたのもまた、GIG中のことだった(ああ、そういえばこのことを書きたくてblogを開いたといっても過言ではないのだ)。
あれは…あれは、私には「僕たち普通の人ですから」という宣言に読めるのだけど、どうだろう。
これからもっといろいろ知っていったり、好きになっていくうちに、この感覚はいずれ薄れて恥ずかしい過去になってしまうだろうから敢えて書いておくけれど(あるいは既に語り尽くされているか)、彼らは多分必死で音楽に食らいついているんじゃないかな。オーラをまとったミュージシャンだって、元を正せば誰でもが普通の人出身かもしれない。けれど彼らの場合は、例え「後づけ」であっても、そういうミュージシャンとかロッカーのオーラみたいなものを(本人たちも、オーラ(ロックの神様みたいな?)の方からも)拒否し合っているような、そんな風に見えてしまう。

普通の気の良いお兄ちゃん達が、努力と戦略と運とサムシングで階段を駆け上った時、周囲は「普通の人にはない何か」の存在を期待するかもしれない。そういう「何か」を予め持っていたのだ、だから彼らは…というストーリーを期待する、と言ってもいい。その期待に対する答えを、彼らは「妖精」という言葉に置き換えているのではないか。要するに、いわゆる「アーティスト」な人たちの中では逆のベクトルで異質=妖精ですよ、というような。そんな風に感じたりもしています、あの言葉には。旺盛すぎるサービス精神がそう見せているだけかもしれないけどさ。あとは、嘘も吐きき続けていれば真になる、という言い伝えを信じて、本当の妖精になろうとしているのじゃないかと思ったりするのです。


そして、その妖精宣言を「空飛ぶこと」で実践してくれたのが彼か。M。それこそが「夢見る頃を過ぎ」た1人目のピーターパンの選んだ答え、だったのか。

少なくとも私はMが「妖精さん」だったとは思わなかったのだけどな。いや、今も数多くの人がそんなこと思っていないのだけど、彼(M)だけはそう思って(思いこんで)しまったのかもしれないね。

実は、GIGに行く前に集中的に音を聞いて、そしてGIGを観て團長もひょっとして、Mと同じような思い(そして実行計画)を抱いていたのじゃないかと、と密かに凄く心配していたのだ。本を読んでしまったら、その思いは決定的にさえなった。ところが実際には、自分が飛ぶ前にランマが飛んで(落ちて、か)しまっていた。…凄い番狂わせ、だったんじゃないのか。いや、全く脳内の想像でしかないのだけど。

多分、團長が心配したり駆けずり回ったりしている中で、ちょっとでも脱力する瞬間があったとしたら、それは「お前が(やっちゃったの)かよ!」という思い故かもしれない、なんて。いや、何事も有って欲しくないし、ランマだって、今となっては命に別状がなくて本当に良かったのだけれど。

でも、そんな風に「伝説」になりきれないところも好きなんだと思う、多分。だからこそ夢を見させてくれてるんだろうと思う。むろん、こちら側の勝手な夢なのだけどね。