違い、について。

その心は「物足りなさ」なのかもしれない。その物足りなさは、もしかしたら「聞こえるはずギターの有無」なのかもしれない。ということは、ランマちゃん(のギター)というのは、氣志團ちゃんにおいて、やはりそれだけすごい存在感だったのかもしれない……今日は改めて、そういったことに思いを馳せています。や、「音について」なんて、それも「ギターについて」なんて、自分は全く語れはしないのだけど、それでも、もし新曲の印象が「これまで」とそんなに違うとしたら、やっぱりそこにもフックがあるような気がする。つまり、あとぜきさんが言っていた「強烈なクセ」というのは、團長の歌詞やメロディライン、節回しと同じくらい、ランマちゃんにも起因しているということなのか。「だから」この曲はこんなにストレートな印象、なのかもしれない……ええー! ほ、星☆グラくんてそんなに凄い人なの!?  團長のインタビュー読む限りでは、むしろ反対の方向で「凄い」印象なんだけども……。でも、考えてみれば、自分でもしょっちゅう「ランマちゃんの曲」にコロッとやられてるんだった。ううむ、恐るべし、星☆グラ。


今も相変わらずPCのバックグラウンドで『夢みる頃を過ぎても』を鳴らしているのですが、聴けば聴くほどにちょっとこう、照れてきました。
私にとって「ゆめみるころをすぎても」というフレーズは、うんと昔、とても大切な曲のタイトルとして既にインプットされていて、聞けばどうしてもそのことを思い出さずには居られない(はず)なのだけれど、この新曲は、そんな私の「メスくせぇ」感傷や心配を、意外なほどすっぱりと両断して、私の中にポーンと飛び込んできた気がします。

「ストレート」。本当に直球だわ。それはもう、ちょっと恥ずかしいくらいに。

歌詞だけを先に読んだ時にもそんなことを感じたのだけど、曲として組み立てられて対峙してみたらこれがまた本当にすごい直球で、もし自分がもうちょっと違う感覚で氣志團ちゃんに接していたら、やはり私も相当ハラハラしてしまったんじゃないだろうか。「違う」というその一点のみにおいて、ね。しかし、悲しいかなバンドというのは、自分の与り知らぬところで決定を下し、自分の与り知らぬうちに進化してしまうものなんだよな。だから、それを遠くから双眼鏡で見て、「よし!」と思えばついて行けばいいし、「違う……」と思えばそっとしておけばいいのだ。そして、ハラハラしたとしても、泣かされて悔しい思いをしたとしても、好きなら好きでいればいいのだ---と、いつの間にか「大昔の方の」バンドのことに話がシフトしてしまったりして。やっぱり『夢見る頃を過ぎても』には、何かを思わないわけにはいかないのだな、と感慨を深くしています。