立ち止まらずにそこにいるということ。

ぼうっと毎日を過ごしていて、ふと昔のことが思い出されるときがある。いや、「思い出される」なんていうよりは、「突きつけられる」といった方がむしろ近い。そして、「ああ、そういえばそんなこともあった、あんなこともあった」と当時に思いを馳せるたび、自分はいつの間にこちら側の道を歩くことにしたのだろう、どうしてあのまま真っ直ぐ軌道に乗っていられなかったのだろう、と考える。ただし、そのとき稼働するのは脳みそのほんの上澄みの方だけで、深い思考や内省などに至ることも至るつもりもないというのは、やっぱりまだ正面切って「その頃(ひいては今に至る自分の脆弱さ)」に立ち向かうだけの勇気がないのだとも言える。もし自分がもっと強靱な心と体力を持っていたら、間違いなくここでこんな文章を書いてはいないし、書いていたとしても全く違うものを綴っていただろう。現在を後ろ向きに悔いたりしているつもりはないけれど、やはり分岐点はどこかにあった。その分岐点を、確かに私は選んで進んだのだった。その結果が「現在」なのだ。それ以上でも以下でもない。


ただ、立ち止まっているつもりがなくとも、周りが自分よりも広い歩幅で歩いていけば、相対的に自分は遅れを取っていく。周りの歩幅が等しく、そして自分よりも大きければ、私はこの世の中で「置いていかれた人間」として数えられていくのだろう。それを否定するのなら、否定したいのなら、否定するつもりがあるのなら。考えはまだまとまらないけれど、閉じたリズムを少し崩すということも、あり得ないとは言えない。
このままゆっくりと腐っていく方がはるかにリアル。けれど、それは良くできたテレビ番組を見ているようなリアルだから、もう少し違ったシナリオを考えたって悪くはない。確かに、思えばもうだいぶ長く休んだのだから、そのくらいの体力が戻ってもおかしいことはない。