ここは紀元20年、過ぎ去った未来。

今年が2008年であることに改めて感嘆する。いや別に何年だって構わないのだけれど、キリのいい数字であることは間違いなく、そこに整理された何かを感じずにはいられないのだ。どうしても。


1988年。思えばこの年が自我における紀元0年だった……なんていうとまた大げさだけど、本当に、この年の春先に起きた出来事を中心に、わたしの心象風景は大きなコンパスとなって弧を描き、今再びの地点へ戻ろうとしている(ような気がする)のだ。そう、全てはこの20年に起きたことなんだなぁ。
もし、出来事の順番が少しずつでも異なっていたら? そうしたら、もっと望むような結果が得られていたのかもしれないけれど、その「望むような」というのはつまりわたし自身のエゴ的にであって、自分以外の誰かを慮ったものではない。するってぇとこれはやはり因果応報?
なんというか、すべからく現在は過去の集積である、という至極当たり前の事実をつくづくと突きつけられる。今にしてみれば笑っちゃうけど、なんと大まじめに深刻に、この長い年月かけて自分は真剣なことやアホらしいことや不埒なことを繰り返してきたんだろう。
あるいはもし、「紀元」となる出来事がなかったら? わたしは、紀元前の自分(要するに丘の上で大将をやっていた自分)のまま、すくすくと鼻っ柱を(違う方向に)伸ばしていたかもしれないし、それはそれでどこかでポッキリと折れる瞬間が訪れたのかもしれないけれど、そんな仮定も全て「たられば」の世界であって、とてもリアルにシミュレーションできるようなものではない。


「自分自身」を把握する上で、”紀元”の存在はとても便利だ。「それ以前」「それ以後」で、本当にマインドががらりと変わったし、そののち紀元3年(笑)に起きた宗教改革(!?)で、また大きく自分自身の中身が動いた。ていうかね、そういったものの総括は都度済ませるべきであるのだろうに、厄介なことにどうもその辺りの手順がだいぶ狂ったのだ。いやいや、「〜狂った」なんてそんな他力本願な。結局自分が総括を放棄したのよ。間違いなく。


ともかく、非常に厄介な回路を積んだこの砂袋を、どうにかこうにか引きずってきた20年(長……)。転覆したり浮上したりを繰り返し、ようやく安定してきたのかな、と思えたのは実に、「ちょうど三年前の、この道を疾走した夜」を過ごしたあたりからだったのだよねー。そう思うとまた、感慨深い。そして、ようやく暖機の済んだエンジンを抱えて走ろうとする道がまた紀元〜紀元3年あたりに奇妙に符合するものだから、もしかすると、ここから再び艱難辛苦の20年が始まっちゃったりするのかよ、という気もしなくもなくもなかったりして、それがいっそう感慨深い。でも大丈夫。今度は一度通った道だからね。