逝っちゃったPARACHUTE★BOY

ちょうど20年前の、今から1週間後(の前の日)のこと。

宮城宗典が死にました。ヒルビリー・バップスという、正に"これから"が楽しみなロックンロール・バンドのヴォーカリストでした。
私が彼の訃報に最初に接したのは、3/31深夜ーーー正確に言えば明けたばかりの4/1。そう、エイプリル・フール
ヒルビリーザキッド」という番組を御存知ですか。彼らのようなミュージシャンにしては実に珍しく、しかも半年という長きに渡って放映されてしまった、ヒルビリー自らの主演する半フィクション(?)ドラマです。そしてその日(3/31)は、この番組の最終回でした。

私はと言えば、いつものようにこたつに入って、いつものようにクッションをかかえて、ただ"最後"という特別の感慨だけをいつもの他に持ちながら、ブラウン管の中の彼らの一挙一動を食い入るように見つめていました。

始まってすぐのことです。微笑んでいる宮城君の下にテロップが流れました。


『この番組は3/9〜3/11に収録されたものです』


何だろう。


そうして多分、3度目の同じ文章のあとーーー


ヒルビリー・バップスの宮城宗典君が、去る3/29(火)急逝されました』

『半年間に渡る皆様の暖かい御声援の中、あまりにも突然の出来事でした』

『しかし、宮城君の歌声は永遠です。宮城宗典君、安らかにお眠り下さい。スタッフ一同』


ーーー青天のヘキレキ、というよりはむしろ狐につままれたような、という方が的確でした。文字通り、頭の中が真っ白になりました。何しろ時刻は、すでに4/1(エイプリル・フール)なのです。一体誰がこのような言葉どもを信じるものですか。しかし、遂にどんでん返しのフォローはありませんでした。

さて、ここでこうして文章をつづりながら、明日でちょうど一週間目の火曜日です。実際、この間にも沢山の情報が渦まき、彼に対して激しい憤りを感じたりもしました。どう考えても早すぎる彼の人生の幕切れは、私にとっても誰にとっても、納得しきれるものではなかったからです。

今朝になってようやく、ファンクラブへの電話が通じ、彼が事故によって亡くなったことを確認しました。
尤も、一介のファンにしか過ぎない私には、もはやそれが本当であったか否かを確かめる術はありません。ただ彼は、あの人のよさそうな笑顔そのままに、そしてその左手で聴く人の心臓をぎゅっと、わしづかみにしてしまうような、切ない歌声を残して逝ってしまいました…。

もしかしたら、彼は夢を見終えてしまったのかも知れません。どなたか教えて下さい。恐らくは元気で歌っていたであろう3/28のヒルビリー・バップスのライブのことを、そして、最後に彼----宮城宗典が、何と言ってステージを去っていったのかを。


"マタイツカ、オ逢イデキル日マデーーーサヨナラ"


そんな大嘘をついて、宮城君は骨になってしまいました。

口惜しい限りです。



記:1988年4月4日/掲載:1988年 『ぴあ』【YOUとぴあ】より
※改行以外は掲載時ママ。


わたしは、混乱する感情の中でこんな文章を書いていました。
あれから20年。にじゅうねん。ニジュウネン。えらい年月が流れたものです。


   *   *   *


昨秋、永田町の図書館で見つけたのは、実にこの文章が掲載された『ぴあ』だったのでした。

今から20年も前の今日、1人の男の子がこの世という手すりをひらりと乗り越え、ネバーランドへと旅立ったことを知ってからというもの、わたしの感情は乱れ、頭の中は疑問符で埋め尽くされ、時に憤り、号泣し、呆然として、やがて明けても暮れてもこのことばかりを考え続けるようになりました。以来20年。いつの間にか『ぴあ』の原本も散逸し、当然ながら当時の下書き(ワープロ以前の時代)も残ってはおらず、でも、あの時の文章は確かにまだ(それこそ「この世」のどこかに)あるはずだ……という思いがずっとあったのです。それを、あの膨大なアーカイブの中から探し当ててきたというわけ。
それにしても、あの頃から自分の中身は殆ど……というか、「全く」進化していないというこの事実。震えます。まあ、そのくらい「瞬く間」だったということなのだろう。


思えば、この文章はblogでした。わたしは確実に「掲載されること」を意識して文章を書き、あまつさえだれかがこれを読んで反応してくれるのでは、誰かがこの気持ちを分かち合ってくれるのでは、と思いながら封をして投函したのだと思います。
果たしてその思いは編集部に届いたのか、ある日、わたしの文章は活字になって週刊誌の巻末のおたよりコーナーに掲げられました。
もちろんね、反応なんてあるわけはない。けれど、突き動かされた気持ちが原動力になって、あれから本当にいろんなことが始まりました。


「今しかない」


という思い。誰かと繋がりたい、という思い。そして、弾かれたら前に出るしかない、というこの性分は、本当に宮城くんのこの一件がなければ生まれなかったようにも思います。


そんな折も折。命日である今日のこの日に花を持っていくことができなかった代わりに、彼が授けてくれた思いのおかげで繋がった人と大切な会話がありました。
「新しいこと」が始まるのがまさにこの日であるということの不思議を感じずにはいられないような出来事。同時に、たくさんのことがあったけれど、その全てはこの20年のなかに収まってしまうことなのだなあと思えて、その日々がまるで、逆さにするとキラキラ雪の降るスノウボールのような過去であることに小さく驚いてみる。そうなんだ。大変だったけど、それはもうみんな、この掌の上に収まってしまう出来事なんだーーー。


今だって迷っているし、クヨクヨしているし、心が折れて逃げ出したくなることばかりだけれど、それでも、もう一度顎を上げて前を見ようと思ったときから、少しずつ変化は始まっていたのかもしれない。けれど、またしても重ねて宣言してしまうけれど、そうするきっかけを与えてくれたのは、誰あらん、素行の悪いあの堕天使たちであったことは間違いないのです。最近はすっかりご無沙汰しているような気もするけれど*1


どうしよう、何もしなければ平和な日々がもう少し続くのかもしれなかったのに、またしても漕ぎ出しちゃうのか。
「慎重に」という声はいつでも聞こえてくる。でもそれはチャンスに対して慎重に、ではなくて、自分が陥りかねない「罠」に対してのこと。本当に気を付けなければ。でも、風は感じる。この風はきっと、素敵な季節を運んでくるのじゃないかな。

まだわからないけどね。

*1:一番「堕」っぽい人のソロライブも落選しちゃったし……。