打つ手について考える

家に帰ったらツーハンが届いていた。その箱を持って階段まで行って


「おーい箱開けるよー」


と声をかけつつ五指で軽くフタのところを鳴らしてみたらば、それまで2階でぷーすか寝ていたはずのねこのお嬢が、タラちゃんみたいな足音を立てて降りてきた。こんにゃろ、なかなかやるじゃん(笑)


さて。
親しんでいくことは悪くはないけれど、それが目的なわけじゃないから今日も新しい扉をノックしよう、と勇んで出かけてみたものの、残念ながら空振りでした。そんな日もある、か。仕方ないか。今日はそもそも空振りの日だったのかもしれないし。
というわけで、そのままターミナル駅で本屋に寄って、ちょっと気になるトピックについて1冊仕入れて大人しく帰宅。
その間も、ずっと「打つ手」について考えていた。


ちょっと油断したのだった。無限ではないけれど、まだ時間があると思ったのだった。ここのところのペースの方がちょっと異常だったのだから、凹む必要は(恐らく)ないのだけれど、描いたとおりにことが進まないのは、やっぱりちょっとストレスだった。
かといって、打つ手がなくなったわけじゃない。今回の一番の特筆事項は、この「起き上がり」のはやさとも言えるんだろう。とにかく、あっという間にリルートして、「次、どうするか」をはじき出している。


このままの勢いやスピードがずっと維持されるとも思わないけれど、種火が消えることもまた、ないような気がする。迷ったときに聞くべきは内なる声だ。その声がクリアに聞こえるように、準備だけは怠らないこと。


「ね。」


お嬢は特に興味がない、という感じで、さっきからずっと顔を洗っている。
ありがとね。